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長野地方裁判所諏訪支部 昭和51年(ワ)54号 判決

原告 茅野市玉川穴山財産区

被告 国

代理人 梅村裕司 石川利夫 六馬二郎 山本宏一 曲淵公一 ほか三名

主文

一  長野県茅野市玉川字東嶽立場山内字桂小場一一三九〇番山林と長野県諏訪郡富士見町境字一二〇六八番林地との境界は、別紙第一図イないしナの各点を順次直線で結んだ線であることを確定する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  長野県茅野市玉川字東嶽立場山内字桂小場一一三九〇番山林と長野県諏訪郡富士見町境字一二〇六八番林地との境界は別紙第二図朱線(AB線)のとおりであることを確定する。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同じ

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は長野県茅野市玉川字東嶽立場山内字桂小場一一三九〇番山林四四万六二八〇平方メートル(以下「本件一山林」という。)を所有し、被告は長野県諏訪郡富士見町境字一二〇六八番林地六二六万二〇二六平方メートル(以下「本件二山林」という。)を所有し、右両山林は隣接している。

2  本件一山林と本件二山林との境界は別紙第二図AB線であるが、その理由は以下に述べるとおりである。

(一) 従前の占有管理状況と明治時代における紛争

(1) AB線はいわゆる八ヶ嶽の一峰である権現嶽の西斜面の黒樹(くろふ)境で、これより山頂側の被告所有地はほとんど樹木はなく、岩肌が露呈し、夏期以外は雪に覆われているのに対し、AB線より山麓側の原告所有地は栂、唐槍、樅等の常緑樹が生育し、遠方から黒くみえる地域である。

(2) 原告主張の境界、被告主張の境界、本沢川(立場川)及びカラ川によつてほぼ囲まれた部分(以下「本件山林」という。)は旧玉川村穴山区民が穴山区の統制のもとに薪炭材、樹木の伐採等の使用収益をなし、かつ間伐、山見等の管理を行つてきた。そのため明治初期になされた官民区分の際も字東嶽立場山内においてほぼその西側にある鎌ナギとともに穴山区の所有地として認められ、明治一二年六月一日持主穴山共有地として地券が穴山区に交付された。

(3) 穴山区民は、本件山林内の立木を穴山区長の承諾を得て伐採搬出し住宅用建材等に使用してきたのであるが、明治三四年穴山区民であつた伊藤茂重が住宅建築のため本件山林内の立木を伐採して搬出しようとしたところ、同年八月二一日当時の宮内省御料局より、御料地内の立木の盗伐であるとの理由でその搬出を禁止された。穴山区では現場に臨み穴山区有地内の伐採であることを確認し御料局と交渉に入つたのであるが、同年九月七日穴山区民と御料局官吏とが現地で見分し、伊藤が伐採した立木は穴山区有林内のものであることを確認し、同日本沢川の南は紛争解決まで伐採しない旨を合意した。その後穴山区と御料局とで交渉が続けられた結果、明治三五年三月一八日御料局木曽支庁諏訪出張所長は本件山林が穴山区有林であることを認め、その結果伊藤は伐採木を搬出して家を建築することができたが、右建設は今日そのままの姿で残つている。

(4) 宮内省御料局は、明治三七年九月本件山林付近の御料林と民有林との境界につき三宅勝次郎をして境界踏査及び測量を行わせ、一方的に御料局認定の境界線上に境界標を設置した。これに対し、穴山区有林の管理者である玉川村長は同年一〇月正確な境界査定を要求して境界査定願を提出し、同年一二月には御料局の査定した境界を認める旨の承諾書の捺印を拒否し、また穴山区の主張を明確にした意見書や弁明書を提出したが、御料局は明治三九年四月二四日穴山区の主張を却下した。しかし、その後も穴山区民は抵抗を続け、玉川村長は明治四一年七月御料局作成の境界簿に対する調印を拒否し、更に明治四三年二月には前記却下決定に対する異議申立も行つた。その後は、穴山区も御料局も互に周囲を管理するのみで本件山林内の樹木を伐採することなく今日に至つている。

(5) カラ川は、玉川村穴山と本郷村との境界であるが、このカラ川には古くから境界を明らかにすべく「穴山」と刻まれている巨石が存し、またカラ川と本沢川(立場川)との合流点は落合と呼ばれているが、右落合付近の本件山林内に大洞穴が存し、穴山区民は明治時代から右洞穴を蚕種貯蔵所として使用していた。

(6) 被告は本件山林が字擬宝石の一部であると主張するが本件山林と擬宝石嶽とは大きな沢で区切られており、一つの地籍と呼べる位置関係にないことは航空写真によつても明らかである。

(二) 公図、官林図、河川丈量図及び森林図

(1) 明治時代に作成されたいわゆる公図にも本件山林は桂小場一一三九〇番と記され、他方境村の本件山林付近の公図は「諏訪郡境村之内御料地八ヶ嶽山之図」として明治二四年一二月境村小林命次郎によつて作成され、また本郷村の本件山林付近の公図は「諏訪郡本郷村之内御料地八ヶ嶽全図」として明治二四年八月本郷村小池竹三郎他一名によつて作成されており、いずれも各村在住の者であるのに各図とも本件山林は記入されていない。このことは、玉川村のみならず、本郷村、境村とも本件山林が玉川村内に存することにつき一致して認めていたことを示している。

(2) 明治政府は、旧各藩の所有した森林をすべて国有とし、官林図を作成したが、右官林図には二種あり、明治九年三月内務省決議「官林調査仮条例」により作成されたものと、明治一五年農商務省「官林境界測量製図規程」により作成されたものがあり、いずれも営林局又は営林署に保存されている。被告は、本件山林は八ヶ嶽の一部であつて字擬宝石に属するというが、仮にそうであるとすれば、当該部分の官林図が当然存する筈であるにもかかわらずこれは提出されておらず、本件山林に隣接する奥青なぎ及び鷹の巣場各御料地については官林図及び官林帳が提出されている。

(3) 玉川村が明治一八年に作成した河川丈量図には本沢川とカラ川が記載されており、このことは、その頃、玉川村では本件山林を玉川村に属すると認識していたことを表すものである。

(4) 森林図及び森林簿は、森林法に基づき県知事が作成するもので県職員が民有林につき現地を踏査して作成するものであるところ、これによれば、本件山林は本件一山林に属することが明らかである。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の記載の事実は認める。

2  同2記載の事実は否認する。

本件一山林と本件二山林との境界は別紙第一図イないしナの各点を順次直線で結んだ線であるが、その理由は以下に述べるとおりである。

(一) 本件山林を含む諏訪郡下の官林は、明治二二年八月農商務省から宮内省に譲渡されて御料林となつたものであるが当時の御料林は境界の不明確なものも多かつたため、宮内省御料局は、明治二六年「御料地境界踏査内規」を、明治三二年にはこれを「御料地境界踏査規程」に改正して計画的に境界を明らかにしてきており、本件山林付近も明治三七年に至り境界踏査が行われたが、それ以前は厳密な境界調査が行われたことはなかつた。

(二) 三宅勝次郎による境界踏査

三宅勝次郎は、明治三七年宮内省御料局木曽支庁長の命を受けて本件山林を含む山林の境界踏査を行つたのであるが、本件山林付近の境界は、本郷、境両村と玉川村との村界にもかかわるため、三宅は関係村長の立会を求めたところ、本郷村と境村の境界については関係者の意見が一致したが、玉川村と境村との村界については、境村及び本郷村の各村長並びに従来八ヶ嶽に対して入会関係のあつた落合村及び小淵沢村の各代表者は、境村と玉川村との村界は立場川(本沢川)どおりであるとし、カラ川は境村と本郷村との村界であつて本郷村と玉川村とのそれではないと主張したが、玉川村長のみはこれを否認し、玉川村と本郷村との村界はカラ川で、これを登りつめたところで境村との村界に移り、擬宝石、阿弥陀、薬師、権現の各嶽の山背の傾斜地を横にたどり、甲州の国界に達するものであると主張したが、その後玉川村長も一旦は境村長らの主張に同意したけれども、穴山区民の一部が境、本郷、玉川の三村整理図が本件山林は玉川村内に存することで一致していること等を根拠として当初の玉川村長の主張どおりに主張したため境界の合意には至らなかつた。しかし、三宅踏査員は境、本郷両村長の主張その他諸種の資料を参照のうえ境界を被告主張のとおり決定し、本件山林は戦後国有林となり、現在は諏訪営林署が管理している。

(三) 明治初期作成の文書、図画

(1) 青ナギ及び鷹の巣官林略図並びに同官林帳

右略図は三宅踏査員が御料局木曽支庁に保管されていた官林図編冊中から現地踏査用に明治三七年七月二〇日謄写したもので、図中に林区番号、二等一級、三等一級などの記載がなされているところからみて明治九年三月五日内務省決議「官林調査仮条例」に基づく山林絵図面である。そして、右青ナギ官林略図及び同官林帳並びに鷹の巣官林略図及び同官林帳によれば、立場川(本沢川)沿いに上流から青ナギ官林、青ナギ民有地、鷹の巣場官林、桂小場民有地と順次下流に向つて立場川の右岸に位置している。

(2) 山野慣行成蹟調

明治政府は、明治初年の地租改正に伴なう土地官民有区分を行うに際し、関係人をして証拠を添えて申告させたが、本件山林付近については、玉川村内穴山総代伊藤弥助他四名が明治一〇年一〇月二二日付け山野慣行成蹟調を長野県権令宛に上申しているところ、右成蹟調には「一一三九〇番字東嶽立場山の内字桂小場、一一三九一番同所の内字鎌ナギ薪炭[禾朱]山九〇町歩」の境界について「東は鷹打場御官林境、南は立場川瀬筋境、北は原村広河原境、西は原山公有地境」と明記されている。また、右山野慣行成蹟調を上申するに先立ち、玉川村は隣接村との間で区域確認を行い、信濃国諏訪郡玉川村立場山之内鎌薙続接地図譜を作成し、明治一〇年一〇月一四日諏訪郡玉川村戸長らが連署して長野県権令に上申しているのであるが、この続接地図譜からも桂小場は立場川を越えてその左岸にはない、そして、山野慣行成蹟調の結果上申区域が民有地と認定され、この鎌薙地籍九〇町歩を二分し、一方を字桂小場四五町歩とし、他方を旧名を残して字鎌ナギ四五町歩として地券が交付されたのである。

(3) 長野県庁に保管されている明治一一年作成の諏訪郡一村限明細絵図の玉川村絵図にも字桂小場は鷹の巣場官林と字鎌ナギとの間に位置しており、字桂小場は立場川を越えてその左岸に存在しないことは明らかである。右絵図には玉川村戸長が署名押印しており信憑性の高いものである。

(4) 諏訪郡玉川村立場山穴山共有総代が明治三四年一〇月八日御料局に宛て提出した官林境界上申書之理由及弁明書に添付されている御官林三ヶ所見取絵図面には作成年月日が記されていないが、右弁明書によれば明治九年一一月作成された諏訪郡玉川村境界標木表と同時期に作成されたものと認められるが、その後右図面を資料として玉川村に存した御小屋官林、鷹の巣場官林及び青ナギ官林につき玉川村戸長らが立会いのうえ内務省官員の調査が行われ、これに対し玉川村戸長らは明治一〇年七月二五日右図面に誤りのないことを確認してその旨の確認書を提出しているところ、右御官林三ヶ所見取絵図面における字桂小場の位置は前述(三)(1)のとおりであり、当時の玉川村関係者は異議なくこれを認めていたのである。また、右標木表によつても字桂小場が被告主張の位置に存することは明らかである。

(5) 長野県保存の公文編冊明治一八年「土地官民区別之部」によれば、官民有区別のため本郷村、境村等から「従前公有地箇所限取調」等が長野県令宛上申されているが、これらの文書中総名八ヶ嶽と東嶽立場山(桂小場を含む地籍)との境界はいずれも境川(立場川の別名)と明示されている。そして、右八ヶ嶽区域は明治一七年五月二六日官有地第三種に編入され、民有地とはならなかつた。またその後、八ヶ嶽地域のうち林相をなしたところは森林に編入することとなり、右林相部分は明治一八年六月二九日長野県から農商務省木曽山林事務所に引き継がれた。原告は、境界は黒樹境であり樹木のあるところまでが原告の所有であると主張しているが、林相をなしたところは右のとおり官林として農商務省の所管となつたのである。

(6) 田畑山林絵図面

右は明治三七年に三宅踏査員が上諏訪税務署において改租図の要部を写し取つたものであるが、これによれば桂小場は字カマナギの下方に記され、全体として東嶽之内字立場山に属している。また、桂小場は官林字鷹之巣場の西側にあり、官林字鷹之巣場は青ナギ民有地の西側に位置している。

(四) 本件山林の管理経営

(1) 本件山林は古来総名八ヶ嶽と称された地籍の一部であり、右総名八ヶ嶽は地租改正に伴う官民有区別処分に当たり、その対象とされたけれどもその確定がなされないまま官民有未定地として推移してきたが、明治一七年官有地となり、明治十八年には総名八ヶ嶽のうち字西嶽、字編笠嶽、字虚空蔵嶽、字擬宝石ヶ嶽及び字地蔵ヶ嶽の合計五五〇町歩につき森林編入が決定され、その後農商務省を経て明治二二年宮内省に譲渡されて御料林となり明治三七年境界を確定し、明治四〇年には八ヶ嶽事業区施業案を調製するとともに明治四一年から大正六年にかけ、九一、九二、九三及び一五四林班の一部として森林を区画し管理経営を実施した(但し、林班番号は現在のものとは異なる)が、右施業案によると本件山林のうち九一、九二及び九三林班は「急傾斜地で所々に基岩が露出し樹幹矮小、多枝で利用価値を失い、生長又不良な森林状態」であつたため、伐採すれば跡地更新が困難であることから計画期間中伐採が行われず、その後本件山林は昭和二二年農林省所管の国有林となり、現在は長野営林局諏訪営林署長が管理しているが、以後同様に伐採はされていない。現在においては昭和五二年度に調査した伊那谷地域施業計画区第三次地域施業計画森林調査簿(諏訪事業区)により本件山林を二九一ないし二九三及び三五三林班の一部として森林を区画し施業を実施しているが、右施業計画においては、二九一ないし二九三林班は択扱林(択伐的取扱林分)として計画し、三五三林班は高山地帯で除地(岩石地)として取り扱つている。以上のとおり、本件山林については更新困難との理由で伐採は行つていないけれども、御料林又は国有林として明治四〇年以降森林事業の計画を樹立し、その計画に基づき管理経営を行つている。

(2) 境界の保全管理

本件山林については、前述のとおり明治三七年に境界を確定して「八ヶ嶽御料地疆界簿」を作成し、境界に界丙イ一ないし五の境界標識を設置したが、それ以後にも「御料地疆界標識規定」「同施行手続」に基づいて右境界の保全管理を行つており、その成果の一部は「御料地疆界標識巡検台帳」及び「自大正九年度至大正一五年度御料地疆界標識巡検台帳」のとおりである。本件山林が昭和二二年御料林から国有林に編入されたあとにおいては、「国有林野管理規程」に基づき境界の保全管理を行つており、その状況の一部は「国有林野境界標識巡検成績表」及び「巡検簿」のとおりである。右のとおり、本件山林については明治三七年以降管理者において境界標識の巡視を行い、御料林又は国有林として境界の保全管理を行つてきている。

(五) 原告の証拠上の主張に対する反論

(1) いわゆる玉川村公図について

公図の証明力は当該公図の有する正確性から導かれるものであつて公図であること自体から決定的な証明力が与えられるものでないことはいうまでもないところであるところ、山林原野の公図の精度に多くの問題があることは公知の事実であり、本件山林は深山幽谷でその正確性には多大の疑問がある。特に、玉川村公図は、現地調査の結果調製されたものでないため当初から誤謬多く、村民全体に紛争を生じさせていたので、村図四通はすべて封印のうえ諏訪郡役所及び玉川村役場に保存された。そして右図面はその後も税務署及び法務局に引き継がれず、昭和三一年四月から昭和三二年七月までの間に初めて長野地方法務局茅野出張所において保管されるに至つたもので、他の公図とはその保管経過を異にするものである。また原告はその提出にかかる境村図及び本郷村図を公図と称しているが、右両図は公図としては取り扱われていないし、これらにはいずれも地番、地目等の表示がなく、結局両図は、各村所在の御料地八ヶ嶽についての見取図的役割を果していたものにすぎない。

(2) 河川丈量図について

原告は、その主張の根拠として、明治一八年調製の河川丈量図を援用するが、同図にはカラ川が本流と記されているところ、現実には立場川が本流であることが明らかでこの点で既に右図には誤りがあり、その他右図調製以前に作成された前記各文書、図面に照らしても右河川丈量図は信頼できないものである。

(3) 本件山林についての官林図及び官林帳は存しないが、それは官林図等の作成根拠である明治九年制定の官林調査仮条例適用時には本件山林は官林として取り扱われておらず、明治一七年に至りはじめて官有地第三種に編入されたためであり、合理的な理由が存する。

(4) 伐採木搬出禁止解除の件については、原告ら主張の如く御料局木曽支庁諏訪出張所長が搬出禁止を解除したことはなく、事後処理につき御料局が慎重に対処したのは三宅踏査員による境界踏査以前で境界につき確信がなかつたためであり、当時御料局が本件山林を民有地と認めていたためではない。

(5) 穴山区民が明治以降本件山林内に存する洞穴を蚕種低温抑制所として利用してきたことは原告主張のとおりであるが、右洞穴は被告が穴山区民に貸与していたものである。

第三証拠 <略>

理由

一  請求原因1記載の事実は当事者間に争いがない。

二  本件は結局のところ、明治三七年に行われた宮内省御料局職員三宅勝次郎の官民有地境界認定の当否に帰するので、以下本件一山林(桂小場)の沿革及び付近の地形、三宅踏査員による境界踏査の経過、地租改正の際等明治時代作成の図書、本件山林に対する占有管理状況等について検討し、三宅踏査員の判定の当否、即ち本件一山林と本件二山林との境界を判断することとする。

三  本件一山林の沿革及び付近の地形

<証拠略>によれば、

1  東嶽内立場山のうち旧鎌ナギは天保年間より穴山区有林として取り扱われていたため、明治初年の官民有地区分によつて穴山区有となり、その余(鷹巣場及び奥青ナギ)は官林となつたが、その後奥青ナギの一部が還禄士族に払い下げられて青ナギ民有林となつたところ、旧鎌ナギが民有林とされた際これを二分してその一を桂小場四五町歩、他を鎌ナギ四五町歩とされたものであり、したがつて桂小場はいわゆる八ヶ嶽(編笠嶽、擬宝石ヶ嶽、阿弥陀ヶ嶽、薬師ヶ嶽、権現嶽、地蔵ヶ嶽、西嶽、虚空蔵ヶ嶽及び廣原の総称)には属しない。

2  本件山林は八ヶ嶽の一峰である権現嶽の西斜面に位置し、同じく八ヶ嶽の一峰である阿弥陀ヶ嶽とは屋根で連続しているが鎌ナギの存する鎌ナギ嶽(位置からして立場山(嶽)と称せられているものと同一であると思われる。)とは立場川(本沢川)と称せられる沢によつて隔てられている。

3  明治一二年穴山区に交付された地券上、そしてその後の登記簿上も大件一山林の面積は四五町歩とされているところ、本件山林を本件一山林に属するとする長野県作成の森林簿及び森林図上は本件一山林の実測面積は一六七・九七ヘクタールとされており著しく実測面積が大きくなるのに対し、前記森林簿によれば長野県茅野市玉川字東嶽立場山内字鎌ナギの実測面積は一一八・〇六ヘクタールとなつており、本件一山林と鎌ナギとの登記簿上の面積が九〇町歩(八九・二五六ヘクタール)であるから、実測面積と登記簿上の面積比較からすれば右森林簿上の鎌ナギは本件一山林をも含むものであるとの被告の主張が合理性を有することとなる。

以上のとおり認められる。そして、桂小場の位置を被告主張のとおりとするならば、立場山は順次東から奥青ナギ、青ナギ、鷹巣場、桂小場及び鎌ナギと続き、その南境は沢(立場川)で区切られていることとなつて地形上立場山との同一地名が付されていても合理的であるが、これを原告主張のとおりとすれば著しく不自然な地形となるというべきであるし、実測面積と登記簿上の面積比較においても被告の主張が説得力を有すること前述のとおりである。よつて、本件一山林の沿革及び付近の地形からみる限りは、本件山林は桂小場ではないと推認するのが合理的である。

四  三宅踏査員による境界踏査

<証拠略>によれば次のとおり認めることができる。

1  本件山林付近の宮内省御料局所属の御料林は従前官民有の境界が判然としなかつたところ、明治三七年御料地境界踏査規程に基づき境界の査定が行われることとなつて御料局職員三宅勝次郎がこれを担当し、査定に際しては桂小場の当時の管理者である玉川村長及び玉川村穴山区長その他の穴山区民代表数名並びに従前八ヶ嶽に入会関係のあつた長野県諏訪郡境村、同本郷村、同落合村及び山梨県北巨摩郡小淵沢村の各代表が立会したので、三宅踏査員が境村長に境村と玉川村との村界の説明を求めたところ、同村長はほぼ立場川(本沢川)どおりであると指示し、玉川村関係者以外は全てその意見に同意したけれども、玉川村長は玉川村と本郷村との村界はカラ川であり、本件山林は玉川村に属すると主張し、また玉川村穴山区民も譲らなかつたため、結局、桂小場と御料地との境界が立場川であるかカラ川であるかについては関係者一同の合意を得るに至らなかつたが、三宅踏査員は境村長らの主張を採用し、立場川をもつて桂小場と御料地との境界であると認定した。

2  穴山区民が本件山林を桂小場であると主張する根拠の第一は境、本郷、玉川の三村図が一致して本件山林を桂小場と記していることであり、第二には、落合村河川図によれば、カラ川が玉川村との村界であることが示されているとの二点であつたところ、その他に穴山区民が自己の主張を裏付ける証拠として提出した図面を三宅踏査員が模写したものが乙第三号証の三であり、その原図面には添書として安政年間に穴山区民が桂小場であると称して現実には鷹巣場に入山したが、以後誤りのないよう注意し、図面の朱線外には立ち入らない旨記載され、図面朱線は立場川と推認される河川沿いに走つていたことから、三宅踏査員は、右原図面及び添書からしても桂小場の南境は立場川であると認定したのである。

五  明治初年の土地政策は、<証拠略>及び公知の事実によれば次のとおりである。

1  明治政府は明治二年の版籍奉還に際し各旧藩の所有した山林を全て国有としたが、明治六年制定の地租改正条例に基づいて地租を賦課するためには官有地と民有地との明確な区分が前提となるため、明治八年大蔵省と内務省との間で設置された地租改正事務局において右の区分作業がなされ、特に山林原野については地元住民の協力を得て明治一四年にほぼ完了し、民有地とされたものには地券が交付されたけれども、この地券制度は明治二二年土地台帳規則発付とともに廃止され、民有地のすべては各税務署備付けの土地台帳(正本)及び地元役場備付けのそれ(副本)に登録されたけれども、右土地台帳は地租徴収のためのものであつて地籍簿ではなかつた。

2  右地租改正作業の際、地元住民自身の手で小村については一村を通し、大村は各字を単位として一地(畦畔をもつて一小区となつている土地)、一筆(一地又は敷地を合わせ一地券中に記載された土地)ごとに番号を付し、その後測量して、字、番号、地目、反別、所有者等を記し、その番号順に一筆ごとの形状を見取図(一筆限図)とし、これを合わせて一字限図、一村限図(但し、全国的に右三種全部が作成された訳ではない。)を作成してこれを管轄行政庁に上申させた後、官吏が現場に臨んで地元住民の代表者等を集めて確認し、この手続により全国の土地に番号が付せられて土地に特定性が与えられ、またその際、地租確保のため土地の等級を決する必要があつたので、主として地元住民の協議によりこれを決し、山林原野については用材山、薪炭山、萱野等の種類に応じて等級を定めた。

3  地租改正の際地元住民の手で作成された見取図で各地方によつて種々に称されていた図面を総称して改租図(野取絵図)というが、右改租図は、特に山林原野については不正確なものが多かつたため、明治一八年ころから手直しが行われ、これが前記土地台帳の付属図面として用いられ、これが一般には公図と称せられる場合が多いところ、その製図方法は平板測量で、改租図に比較すれば精度もよいし、また官吏が検査したものではあるけれども、その基礎は地元住民が作成したものであつた。

4  改租図のうち土地台帳付属地図として用いられたもの以外は正本は県庁等に、副本は地元役場に保存され、土地台帳付属地図は明治二二年より正本を税務署、副本を地元役場が保存していたが、現在は正本は法務局に、副本は従前どおり地元役場に存する。

5  国有とされた旧藩有林につき全国的に統一して作成された図面として官林図、官林帳があるが、これには二種あり、その一は明治九年内務省決議「官林調査仮条例」によるもので、他は明治一五年農商務省令「官林境界測量製図規定」に基づくものであるが、前者は官林を見取図的に表示し、後者は前者を実測したもので、明治九年から明治二二年ころまでの間に作成された。

六  古文書類の検討

1(一)  山野慣行蹟調

<証拠略>によれば、(1)前記地租改正の際官民有地区分の資料とするため明治一〇年一〇月二二日玉川村穴山惣代伊藤孫助、同村副戸長織田吉右衛門らにより桂小場及び鎌ナギの境界を示すものとして長野県権令に宛て提出された文書には、右各山林の南境は立場川瀬筋境と明記されていること、(2)玉川村戸長横川庸平は、右書面を提出するに先立つ同月一四日旧鎌ナギ(桂小場を含む)の境界を隣接の原村副戸長及び本郷村戸長との間で確認して確認書を作成したうえこれを長野県権令に上申しているが、この図書によつても旧鎌ナギは立場川の左岸にまでは及んでいないこと、がいずれも認められる。

(二)  <証拠略>によれば、地租改正の際地元住民より明治一一年作成された玉川村一村限絵図、特に立場川と推認される河川の位置並びに桂小場及び鎌ナギの形状からすれば、右図面上には桂小場は被告主張の位置に記されていると認められる。

(三)  <証拠略>によれば、(1)明治九年に前掲官林調査仮条例に基づき鷹巣場、奥青ナギ及び御小屋各官林の境界調査を行つた際玉川村において作成した見取図には、桂小場の南境は明記されていないが、桂小場と記した位置からして立場川がそれに該当する如くであり、桂小場のほぼ西隣が鎌ナギと記されており、右図面による桂小場の位置も被告主張のそれにほぼ一致すること、(2)右と同一機会に玉川村によつて作成された諏訪郡玉川村官林境界標木表のうち、鷹巣場官林の境界について記した部分には「西は桂小場、南は立場川」と記されており、桂小場は立場川を挟んでその左岸には存しなかつたことを窺わせること、がいずれも認められる。

(四)  <証拠略>によれば、前記(一)と同一内容を八ヶ嶽につき従前同嶽に入会関係のあつた諸村に明治一五年ころ調査させた文書では、八ヶ嶽内虚空蔵ヶ嶽は北で赤嶽と、東で八ヶ嶽内擬宝石ヶ嶽及び同地蔵ヶ嶽と、八ヶ嶽内擬宝石ヶ嶽及び同地蔵ヶ嶽は北で赤嶽と、西で八ヶ嶽内虚空蔵ヶ嶽とそれぞれ接することになつていること、現実には八ヶ嶽内虚空蔵ヶ嶽と同擬宝石ヶ嶽の北隣は本件係争地であること、がいずれも認められる。したがつて、明治一五年ころ八ヶ嶽に入会関係のあつた諸村では、本件山林は八ヶ嶽の一部であつて東嶽立場山内字桂小場ではないと認識していたと推認することができる。なお、<証拠略>と対比すれば、明治初年に官民有地区分の資料とするため作成された図面(<証拠略>)に記載されている境川、落合より下流の立場川を指すものとは認められるが、本件山林付近については河川の記載がないため、右図面上の河川の位置からは、本件山林が八ヶ嶽に属するか否かについては不明である。また、<証拠略>によれば、八ヶ嶽内にも明治一八年当時林相をなした部分が存したことが認められるが、本件山林以外に八ヶ嶽内擬宝石ヶ嶽等に森林部分がなかつたとはいい得ないため、この点は本件山林が八ヶ嶽に属するとのさしたる根拠とはなり得ない。

(五)  田畑山林絵図面(改租図)

<証拠略>によれば、地租改正の際作成され上諏訪税務署に保存されていた改租図を三宅踏査員が境界確定のための資料として略記したものを更に御料局木曽支庁の職員が模写した図面には、立場川と推定される河川の右岸に上流から鷹巣場官林及び鎌ナギ(桂小場はその一部として小さく記されている。)の順で並んでおり、この図による桂小場の位置も被告の主張にほぼ一致するほか、右図ではその全体が「東嶽之内字立場山」と記され本件山林と目される個所は白紙状であることが認められ、したがつて、改租図においても本件山林は桂小場とされているのである。

(六)  官林帳及び官林図

<証拠略>によれば、(1)三宅踏査員が境界踏査の資料とするため明治三七年に御料局木曽支庁に保管の官林図を模写した図面(<証拠略>)は、その記載内容、特に一官林ごとに製図され、面積、木数等が記入されているところからすれば、前述の明治一五年ころ以降作成された官林境界測量製図規定に基づく青ナギと鷹巣場の各官林図と推認できること、(2)右各図面には、立場川右岸沿いに上流から順次青ナギ官林、玉川村民有地(青ナギ)鷹巣場官林及び玉川村民有地(桂小場か鎌ナギかは図面上は不明)と記されているところ、官林周辺のほとんどについては民有地と官林との区別を明らかにしているにもかかわらず本件山林と推認される地域については民有地とも官林とも何らの記載もなされていないこと、がいずれも認められる。このことからすれば、明治一五年ころ当時の右図面の製図者は本件山林の官民有区分については確信を有していなかつたのではないかと推察される。

2(一)  公図について

<証拠略>によれば、(1)玉川村公図上は本件山林は本件一山林に属することとなつていること、(2)乙第二四、第二六号証の各一の図面は、いずれも公図として取り扱われていないけれども、いずれも法務局に保存され、公図として使用する目的で調製されたものであること、(3)<証拠略>を突き合わせてみれば、三図とも本件山林が玉川村地籍にあつて桂小場に属することを示していること、がいずれも認められる。しかしながら、公図は前述のとおり明治一八年ころから主として民有地整理(徴税)のために作成されたもので官民有地境界確定のために作成されたものではなかつたこと、また公図作成時点においては本件山林が深山幽谷に位置することでもあり、官吏の検査も正確を期し難かつたであろうことは容易に推測されるところ、公図作成以前(明治一八年ころ以前)に作成された図書類がほぼ一致して本件山林が八ヶ嶽の一部であつて立場山内字桂小場に属しないとしていることは前記1において述べたとおりであること、等からすれば、右玉川村公図の正確性については疑問を抱かざるをえない。更に言えば、<証拠略>によれば、玉川村公図は明治二六年調製されたが、現地調査のうえ作成されたものでなかつたため、全体的に誤謬多く玉川村民間に紛争を生じたため、通常の公図のように税務署に保管されることもなく、玉川村公図四通はすべて封印されうち二通は諏訪郡役所に、他の二通は玉川村役場に保存されていたことが認められ、したがつてその全般的な正確性についても多大の疑問があるといわねばならない。次に、甲第二四、二六号証の各一の図面についてであるが、右が公図でないことは前述のとおりであり、これらには地番、地目の表示もなく、表題のとおり各村所在の御料地八ヶ嶽の見取図的なものと評価しうるし、その他玉川村公図に対する不正確要因がここでも当てはまろう(作成者が地元住民であること、深山幽谷であること、官民有地境界確定のために作成された図面ではないこと等。)。しかし、いずれにせよ右三図のみからすれば本件山林は桂小場に属すると推認せざるをえないこと明らかである。

(二)  官林図、官林帳について

明治九年の官林調査仮条例と明治一五年の官林境界測量製図規定により全国の官林につき官林図、官林帳が作成されたことは前述のとおりであるが、調査嘱託に対する長野営林局長の回答によれば、本件山林の官林図、官林帳は作成されていないが、それは、本件山林が官林図、官林帳の作成根拠である官林調査仮条例が制定された当時は未だ官林として取り扱われておらず、その後明治一七年に官林に編入されたけれども、調査に至る以前に宮内省に譲渡されたためであることが認められる。したがつて、官林図、官林帳が作成されていないからといつて、当時、本件山林が民有地として取り扱われていたことを示すものではない。

(三)  河川丈量図について

<証拠略>は、明治一八年玉川村において作成した道路河川取調帳及びその付属図面であると認められるところ、右図書によれば、明治一八年当時少なくとも玉川村民は本件山林は玉川地籍の山林であると認識していたと推認されるけれども、右各図書も作成者が当事者たる玉川村であつて客観的な裏付けを有さず、また図面にはカラ川が本流で立場川が支流であると記されているが、<証拠略>によれば、立場川の方がカラ川よりはるかに沢深く、水量多く、カラ川はその名のとおり水量は著しく少ないのであるから、客観的には立場川が本流と認められ、同図作成の目的が河川取調であることからして、右の如き誤謬は図面そのものの基本的な正確性に疑問を持たざるをえない。

(四)  森林図及び森林簿について

<証拠略>によれば、前述のとおり長野県作成の森林図及び森林簿では本件山林は本件一山林に属することになつていることが認められるけれども、証人花里力男の証言によれば、右図面等は地元の市町村等が提出した資料を基礎として作成されることが認められ、したがつて、右森林図等の基礎資料も本件訴訟当事者又はこれに準ずる地位にある者の提出にかかると認められるから、その客観的正確性は疑問である。

七  占有管理状況

1  <証拠略>によれば、旧幕時代から明治一〇年ころまでの間は穴山区民は本件山林には入山していなかつたと推認しうるし、また<証拠略>によれば、明治三五年穴山区調製の立場山保護規約では、立場山の見廻り範囲内に本件山林は全く含まれていないことが認められる。他方、<証拠略>によれば、穴山区民は明治二〇年ころからは本件山林に入山して立木を伐採していたことが認められるけれども、この点については、<証拠略>によれば、穴山区民の本件山林内での立木の伐採が盗伐であるとして警察署に届け出られたことが認められ、したがつて、当時周辺住民一般は本件山林が穴山区有林ではないと認識していたと推認されることも考慮すべきである。なお<証拠略>によれば、本件山林内のカラ川中に「穴山」と刻された岩石が存し、その刻印時は相当程度旧いものであることは認められるけれども、その刻印時期は不明である。また、<証拠略>によれば、立場川とカラ川との合流点から立場川をやや遡つた右側に洞窟があり、これを穴山区民が三宅踏査員による境界踏査がなされる直前の明治三六年ころから蚕種貯蔵所として使用してきたこと、が認められ、このことは使用者が本件山林を玉川村に属すると認識していたことの徴憑とはなろう。

2  <証拠略>によれば、三宅踏査員の境界査定に不満を持つ穴山区は、明治三七年一一月には宮内省御料局長宛境界査定願を提出したけれども明治三九年四月に申請を棄却されたため、明治四三年に至り右決定に服し難いとして異議申立をしたが、結局その主張は通らず、結果的には穴山区も三宅踏査員の査定境界を事実上尊重し以後本件山林に入山することはなくなつたこと、ところが昭和三〇年代に入つて紛争が再燃し、昭和三一年からは穴山区民が交替で毎年一回程度本件山林の巡視を行つていること、が認められる。一方、<証拠略>によれば、本件山林に関する穴山区と御料局との紛争が一応終結した明治末年以後現在に至るまで御料局木曽支庁あるいは諏訪営林署において、本件山林の境界を確認するなどして管理を継続してきたが、本件山林は高山地帯にあり一度立木を伐採すればその更新が困難であるため、伐採及び植林事業はいずれもなされていないこと、が認められる。

右の占有管理状況を総合すれば、穴山区民が本件山林に入山して立木の伐採を行つたりしたのは明治二〇年ころから境界査定のなされた明治三七年ころまでの時期であり、土地に地番が付された明治初年には穴山区民は本件山林を占有管理していなかつたのであるから、本件山林の事実上の支配の点からみても本件山林が本件一山林に属するとは解し難い。

八  明治三四年における穴山区と御料局との紛争について

原告は明治三四年に本件と争点が同一の紛争が生じ、交渉の結果明治三五年御料局木曽支庁諏訪出張所長は、本件山林が桂小場に属することを認めた旨主張するところ、<証拠略>によれば、明治三四年八月御料局木曽支庁諏訪出張所長相原安太郎に宛て警察署より穴山区民が御料林で盗伐している旨の通告があり、係員に調査させた結果、同所長はこれを盗伐と認めて伐採木の搬出を禁じたこと、その直後穴山区民が伐採個所は東嶽立場山内字桂小場であると主張したため、同所長は穴山区民と実地調査したが、穴山区民の指示する境界と同所長の認識するそれには大差があつたため、八ヶ嶽に入会関係のあつた前記四1記載の諸村の代表者の意見を求めたところ、同人らは穴山区民が桂小場と主張する山林は境村字擬宝石ヶ嶽御料地であると説明したこともあり、更に調査を続行中の明治三五年三月穴山区民より強く伐採木搬出禁止解除の要請があつたため、同所長は搬出を黙認することとしたが、穴山区民はこれを同所長が本件山林を桂小場と認めて搬出禁止を解除したと理解したこと、その後御料局は三宅踏査員の踏査結果に基づき本件山林を編笠山御料地の一部(擬宝石ヶ嶽に属する)と決定したため、相原所長に対し穴山区民につき時効を経過していないものについては賠償請求すべき旨を指示したが、同所長は明治四〇年すべて消滅時効が完成している旨回答し、その責任上進退伺を提出したところ不問に付されたこと、をいずれも認めることができる。右に認定したところよりすれば、相原所長は本件山林が御料地に属するのか桂小場に属するのか判断に苦しみながら、穴山区の提出した証拠書類(本件で原告が提出した公図等であつたであろう。)及び強い要望により伐採木の搬出を黙認したものと推察でき、本件山林が桂小場であるとの判断よりなしたものではなく、また御料局の穴山区民に対するその後の処置が比較的穏便であつたのは、本件山林が深山幽谷のため従前官民有地の境界が判然せず、穴山区民に盗伐の意思があつたと断定し難かつたためではないかと思われるのである。したがつて、右の経過は明治三四年ころ穴山区民が本件山林を桂小場と認識していたとの徴憑とはなり得ようが、これをもつて当時の相原所長が本件山林を桂小場と認識していたということはできない。

九  以上みてきたところを総合するに、第一に、本件一山林の沿革付近の地形及び登記簿上の面積と実測面積との比較の点、第二に明治三七年における三宅踏査員による境界踏査の際、本件山林が本件一山林に属すると主張したのは当時の玉川村関係者のみで、他の諸村の代表者は一致して本件山林は御料地である旨主張している点、第三に、明治一〇年前後ころまでに作成された図書においては、本件一山林は一致して被告主張の位置に記され、本件山林を含んでいない点、第四に、原告が本件一山林の所有権を取得した明治初年、穴山区民は、本件山林の事実上の管理支配を有していなかつた点、以上の諸点よりすれば、本件山林は本件一山林には属しないと解するのが合理的である。ただそう解した場合、玉川村公図、境村図及び本郷村図並びに明治一八年作成の道路河川取調帳及びその付属図面の存在並びに明治三四年当時穴山区民が本件山林を本件一山林と認識し入山していたことが問題となるが、右玉川村公図等については、これよりも旧く、土地に地番が付せられ境界が設定された時代に作成された図書類が一致して玉川村公図等に反する記帳をしていること及び右玉川村公図等の作成の主体は地元住民で、かつ、本件山林は深山幽谷に属することからして、穴山区民の入山の事実については、それ以前の明治初期には入山していなかつたことからして、いずれも決定的な意味を有するものではないというべきで、他に本件を通じ前記認定を覆し、原告の主張を裏付けるに足る証拠はない。

よつて、主文のとおり、被告主張の境界をもつて本件一山林と本件二山林との境界と定めることとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 加藤誠)

別紙 <略>

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